無争かけ 2 [弓道]
かけの使い勝手は、確かに良かった。
が
その後国体選手を目指す育成会・錬成会などに参加すると、
当時の国体強化委員の教士・錬士の先生たちには、
自分の持っている無争かけの帽子の付け根が折れているのを見て、
『かけを握りこんで帽子を折っているのではないか』
『だから力みのある射になっているのではないか』
などのことを頻繁に言われるようになった。
確かに当時の射は、
20kgの弓を少ない練習量で抑え込んでいるような引き方をしていて、
引分けで震えも出ていた。
会での安定性に欠けるように見られていたのかもしれない。
もともと無争かけの控えは柔らかいを通り越して
控えを曲げても問題は無いような、当時の常識では信じられないようなかけだった。
そして買った当初から、帽子の付け根も折れていたように記憶していたのだが、
力みのある射をしていたから帽子を折った、ということに反論はできなかった。
そこから手力の弓を脱却し、
安定感のある射を目指して努力はしたものの、
やはり国体選手に必要なのは中り。
いつしか
自分の理想とする横一線の真一文字の大離れを忘れ、
中りのためにできることをやるという考え方に
変わっていってしまったような気がしている。
国体選手を目指そうと思った理由は、
社会人弓道に携わっていて、
弓道部の現役生に自分の背中を見せて
率先垂範をするためには、
県を代表するような選手、全国区の選手を目指すべきだという考えからだった。
また
単に趣味の領域を越え、
弓道に携わるということを、
職場などの弓道から離れた場所にいても、証明したいという考えからだった。
しかしこの国体選手になりたいという欲求に克てず、
自分自身の射のコンセプトを忘れて中りを求めてしまったのが、
その後の射癖を生むキッカケになってしまったように思う。
中りを求めるための射の組み立て方は、
弓手の強化、
弓手のベクトルを邪魔しない妻手の働き。
確かに弓手に特化した射に変貌を遂げていった。
確かに弓手に特化した射の時期は、中りも6~8割出ていた。
埼玉県選手権の四・五段の部で準優勝もしたし、
武州弓道大会でも10位以内に入賞したことがある。
清水コーチ・武田と一緒になって、
地方大会荒らしをしたことも何度もある(笑)
この時期は、的の「点」を狙うこともできた。
遠近競射で先に引かれた選手に一黒に入れられたことがあったが、
中白に的中させたこともあった。
サランラップの芯で作った的に中ったこともある。
錬士に昇格できたのも、
このころだったと記憶している。
しかしその時期の射の講評は、
「ビクりが出て、射が危なっかっしい」
「弓手を振り込む離れ」
「妻手が戻る離れ」
「妻手の引き過ぎで矢尺の取り過ぎ。見ていて危なっかしい」
確かに中りはする。
だが射を見ていて危ない。
そういう評価しか出なくなった。
国体選手の候補に選ばれたことはあったが、
結果的に選手にはなりきれなかった。
さらにその後、
「その射をしているうちは、県の代表選手に選考はできない」
「見ていて離れで目を覆いたくなるような射」
そこまで言われるようになってしまった。
弓手に特化した中りを求める射。
その射で10年も持たなかった気がする。
その時期を境に、
川越の先生を訪ね、
巻藁中心の生活をして、
妻手の力みが解消されるような射にはなってきたが、
その頃合いに愛知に転勤。
練習量激減
全く前に進んでいる気がしない
そして現在に至る。
弓道に携わって、
非常に苦しい時期を迎えることになった。。。
が
その後国体選手を目指す育成会・錬成会などに参加すると、
当時の国体強化委員の教士・錬士の先生たちには、
自分の持っている無争かけの帽子の付け根が折れているのを見て、
『かけを握りこんで帽子を折っているのではないか』
『だから力みのある射になっているのではないか』
などのことを頻繁に言われるようになった。
確かに当時の射は、
20kgの弓を少ない練習量で抑え込んでいるような引き方をしていて、
引分けで震えも出ていた。
会での安定性に欠けるように見られていたのかもしれない。
もともと無争かけの控えは柔らかいを通り越して
控えを曲げても問題は無いような、当時の常識では信じられないようなかけだった。
そして買った当初から、帽子の付け根も折れていたように記憶していたのだが、
力みのある射をしていたから帽子を折った、ということに反論はできなかった。
そこから手力の弓を脱却し、
安定感のある射を目指して努力はしたものの、
やはり国体選手に必要なのは中り。
いつしか
自分の理想とする横一線の真一文字の大離れを忘れ、
中りのためにできることをやるという考え方に
変わっていってしまったような気がしている。
国体選手を目指そうと思った理由は、
社会人弓道に携わっていて、
弓道部の現役生に自分の背中を見せて
率先垂範をするためには、
県を代表するような選手、全国区の選手を目指すべきだという考えからだった。
また
単に趣味の領域を越え、
弓道に携わるということを、
職場などの弓道から離れた場所にいても、証明したいという考えからだった。
しかしこの国体選手になりたいという欲求に克てず、
自分自身の射のコンセプトを忘れて中りを求めてしまったのが、
その後の射癖を生むキッカケになってしまったように思う。
中りを求めるための射の組み立て方は、
弓手の強化、
弓手のベクトルを邪魔しない妻手の働き。
確かに弓手に特化した射に変貌を遂げていった。
確かに弓手に特化した射の時期は、中りも6~8割出ていた。
埼玉県選手権の四・五段の部で準優勝もしたし、
武州弓道大会でも10位以内に入賞したことがある。
清水コーチ・武田と一緒になって、
地方大会荒らしをしたことも何度もある(笑)
この時期は、的の「点」を狙うこともできた。
遠近競射で先に引かれた選手に一黒に入れられたことがあったが、
中白に的中させたこともあった。
サランラップの芯で作った的に中ったこともある。
錬士に昇格できたのも、
このころだったと記憶している。
しかしその時期の射の講評は、
「ビクりが出て、射が危なっかっしい」
「弓手を振り込む離れ」
「妻手が戻る離れ」
「妻手の引き過ぎで矢尺の取り過ぎ。見ていて危なっかしい」
確かに中りはする。
だが射を見ていて危ない。
そういう評価しか出なくなった。
国体選手の候補に選ばれたことはあったが、
結果的に選手にはなりきれなかった。
さらにその後、
「その射をしているうちは、県の代表選手に選考はできない」
「見ていて離れで目を覆いたくなるような射」
そこまで言われるようになってしまった。
弓手に特化した中りを求める射。
その射で10年も持たなかった気がする。
その時期を境に、
川越の先生を訪ね、
巻藁中心の生活をして、
妻手の力みが解消されるような射にはなってきたが、
その頃合いに愛知に転勤。
練習量激減
全く前に進んでいる気がしない
そして現在に至る。
弓道に携わって、
非常に苦しい時期を迎えることになった。。。
2016-05-20 12:51
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